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コミュニティホール

コミュニティホール

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平面図

陶板(コミュニティホール壁面)
陶板写真1陶板写真1陶板写真1

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別所家の菩提寺である法界寺に江戸時代から三木合戦絵図が伝わっており、この絵図は、別所長治を始め一族一門の菩提を弔い、遺徳を偲ぶために、巧妙な作戦のもと、22カ月間にわたり、各所で繰り広げられた目ざましい奮戦の模様を3幅の大掛図に描かれたもので、この陶板は、その絵図の一部を抜粋したものである。

合戦絵図解説

元亀天正(1570年代)のころは、血生臭いあらあらしい空気が日本全土に満ちあふれ、群雄割拠し、お互いに戦いを繰り返していた。

ときは天正6年(1578年)の春より、天正8年(1580年)正月にわたり、ここ東播の地に三木城をめぐる壮絶な攻防戦が展開された。攻めるのは、当代随一の知恵大将で、歴史を通じての英雄であった羽柴秀吉であり、守るのは東播八郡(三木、明石、加東、加西、加古、印南、多可、飾東)の豪族で、その名も高い青年城主、別所長治であった。

織田信長が天下統一の大業を企て、中国毛利征伐の総帥の命をうけた秀吉は天正6年(1578年)3月7,500の大軍を率いて播州に入り、三木方と会談を行ったが不首尾に終わり、ここに三木合戦が始まった。

別所氏が東播の守護に任じてから三木城に住すること十有余代、東播八郡と摂津の一部を領有し、出城と称するもの30有余、砦等100余り、一族の旗がしらとして各地で大激戦を演じた。しかし、要害堅固の名城と誇った三木城も秀吉方に城を包囲され「長期にわたる兵糧攻め」という戦略によって食糧が絶えて、長治は義を守り忠義を尽くす家臣や哀れな婦女子や庶民を思い開城し、天正8年(1580年)正月17日23歳の若き城主は、士卆と領民の命を救うことを条件に一族と共に悲しくも自害した。

この解説は毎年2月17日に法界寺で行われる三木合戦絵図の「絵解き」に基づく各場面の解説で、
法界寺の協力により作成したものです。